
先日、実の祖母が亡くなった。享年92歳。
コロナ禍で田舎はピリピリしており、帰省することは叶わず、
残念ながら会えなかった。
彼女のことを思い返すと苦労の多かった人生だったような気がする。
今回、祖母の死を通して自分の死ぬ間際に思いを巡らせ、
どう生きるかを改めて考えた。
目次
死んだばあちゃんはこんな人だった
「いつも不満そう」
祖父がろくでもない人だったものだから(いろいろやらかしてます…)
よく祖父を罵っていた。
ボクが小学生の頃だっただろうか。祖母はタバコを吸っていた。
おばあちゃんが家でタバコをプカプカ吸うのは田舎では(どこでも?)珍しかったので、
家に遊びに来た友だちはそれを見てボクをからかった。
なぜタバコを吸い始めたのかなんて聞いたことなかったなぁ。
祖母が亡くなってから思うが、人が何か変化した時は大体理由があると思う。
変化が大きければ大きいほど、その人にとって大きな理由があるはず。
それを聞いてあげれば良かった。小さく内向的なボクはそんなことを思うことすらなかったように思う。
人の変化に関心を持ちたい
そう思った。人の変化にはその人なりの想いがあって
よっぽどのことだったから、行動に移し、他人から見て
「あの人、変わった」となっている。そこには大事な決断が含まれている。
祖母も同様。だからタバコを吸い始めたのだろう。
若い頃は学校勤めをしていたので、ある知り合いからは「先生」と言われていた。
女性の先生でタバコを吸うなんてあまりないと思うから
よっぼどのことだったんじゃないかと想像する。
人の幸せを願うだけでいいのか?
祖母は夫婦関係で満たされたことがあるのだろうか。
少なくともボクは祖母と接していてそんなことを感じた記憶はない。
ろくでもない祖父は祖母よりも先に逝った。すでに祖母は物忘れがひどいせいか
「じいちゃん、死んだんえ?」と確認してきた。
「そうよ」と言うと「死んだんじゃなぁ」と一瞬理解するが
また同じことを聞き直してきた。そんな会話をしていると
祖母に残っている記憶はボクが考える人の記憶よりもはるかに少なく
今という瞬間を生きざるを得ない状況なのだと思った。
祖母と一緒にいるといつもとは違う時間が流れているようだった。
葬式の日は暖かくて光が差し、心地よかったので、別世界への扉が
開くような気すらした。年を取って誰が誰なのかもよくわからなくなった時、
目の前に広がる光景はどんなものだろう。
自分の人生を振り返ることすらできないのではないか。
死ぬ間際にはどんな走馬灯が過るのだろうか。それとも過ぎらないのだろうか。
幸せな記憶が祖母に甦る最期であったことを願うばかりである。
そう思ったがそれだけでいいのだろうか。
身の回りの人たちの幸せを願って、自分にできることはないのか。
充実した人生を歩むための3つの問い
他人の最期がどうだったかを知ることは難しい。
人として生きてきて良かったのか、悔やんでいるのかはその人が決めることだし、
今回みたいにそれを聞けないこともある。
こういうことって互いに知っておいた方が人生は充実するのだろうか。
どうすれば人生が充実するのかを自分なりに定義する必要があるが、
ボクの場合はどうだろう。想像しよう、死ぬ間際を。
一応、頭はまぁまぁはっきりしているという前提で。
けど、いつ死ぬかわからないのでこのことはすぐに意識して日々を暮らした方が良いと思った。
まず、本心で生きられたかどうか。
その状態で、世のため人のためと思って生きられたか。
その結果として関わる人がいて、本気でぶつかったり、わかりあったり、後になって笑って思い出せる。
そういう人生がボクはいいような気がする。
お酒を飲んで昔の話をして笑い合う感じ。
そのためには、今をしっかり本気で生きなければならない。
本心でぶつかり合わなければならない。
ぶつかりあった結果、ボロボロになって二度と会わないかもしれないし、
分かり合えて唯一無二の親友になるかもしれない。
それは結果であり、大事なスタートは「本心でぶつかり合うこと」。
そもそもぶつかり合うというとイメージがよくない。
世のため、あなたのためと思って接するということ。
だから、「世のため、あなたのため」がどういうことなのかを
自分なりにはっきりさせておかなければならない。
それは自分にしかわからないことなので、次の問いを持って
行動することが人生を充実させることにつながるのだと思う。
- 「今この瞬間、ボクの本心は何を思っているか?」
- 「その本心は世のためになると思うか?」
- 「世のためになると信じる本心に従い、行動できているか?」
以上の問いを持ち、できる範囲で行動し続ければ
人生を充実したものとして振り返ることができる気がした。
今のままでいいのか?
では上述した3つをできているかと問われれば完璧にできているとは言えない。
どうしても他人とぶつかる。なかなか勇気がいる。
「私にはできない」という強い思い込みに勝たなくてはならない。
このままでいいのか?と自問しなければならない。
本当に「できない」で人生を終わってもいいのかどうか。
赤ちゃんは立とうとする。何回尻もちをついても。
諦めずにボクは何をしようとしているのか。
それは本心が知っているはず。自分に向き合い、自分が何をしたいのかを
決めなければ人生は充実しない。
八木仁平さんの「やりたいことの見つけ方」を思い出した。
この書籍では本当の自分を生きるための自己理解メソッドが紹介されている。
巻末には「大事なこと(価値観)」、「得意なこと(才能)」、「好きなこと(情熱)」の
リストが100ずつ掲載されており、自分がどういう傾向をもった人なのかを
掴むことができて大変参考になった。
あぁ、やっぱり自分は「情熱」を大事にしていて「人の可能性を信じたい」んだなぁとか。
この人生で本当にやりたいことを見つけたい方にはめちゃくちゃおすすめです。
ちなみに、ボクの価値観・才能・情熱は以下のとおり。自分がはっきりする。
- 価値観:挑戦、創造、信頼、信念、ユーモア、情熱、目的、受容、自尊心、自己認識、発揮、ありのまま、熱中、表現
- 才能:献身的、人を繋げる、他人の視点で考える、人の可能性を信じる、人の成長を応援する、情報を集める、集めた情報を役立てる、構造化して考える、考えることが好き、じっくりと考える
- 情熱:自然環境、IT、トレーニング、学校教育、ビジネス、家庭
自分はどう生きたいのか?
世のために生きたい。そんな気がする。
であれば、世のためになることがなんなのかをとりあえず決めて行動する。
充実した人生を生きたい。生きてほしい。だから本心を探るための手助けをしたい。
その人の価値観・才能・情熱を理解するためのお手伝いをしたい。
その人にとっての「世のためになること」が明確になり、それに向かって行動する後押しをしたい。
では自分は世のために何がしたいのか。
今の社会は問題があると思っている。最悪なのは、生きづらさから自死する人がたくさんいるということ。
自死にまで至らずとも精神的に追い詰められている人は本当にたくさんいると思う。
ボクも会社員時代は幾度となく追い詰められていた。
そんな世の中を変えたい。小さくていいから温もりのあるコミュニティをつくりたい。
むしろ小さい方がいいのかもしれない。
死ぬ間際に家族や近所の友人・知人の顔が思い浮かび、
笑みがこぼれるような関係性をつくりたい。
そのための仕掛けはどんなものなのか。つくりたい。
これが自分の商品なんだと思った。
大事なことは「本気で取り組むこと」
もっと自分の人生に本気になっていい。もっと他人の人生に本気になって関わっていい。
そんな本気の雰囲気の中で、人の可能性はもっともっと開花するのではないだろうか。
ボクは控えめな性格で、自分のことは後回しにしがち。
自分が何をしたいのかよくわからないことが多い。
「今日の夕飯、カレーがいい?それともグラタンがいい?」と妻に聞かれても
「どちらでもいいよ」と答えることが多い。こだわらない性格。
何をこだわりたいのか。したいのか。
「気になる」は大事なサイン
価値がある人と価値がない人がこの世の中にはいて、
成功する人としない人がいるようだ。気になってしまう。
人間ってそういう生き物なの?違うでしょと言いたい。
弱き人を助けることは強く生まれた者の責務じゃないのか?
(by煉獄杏寿郎の母)
弱き人はたまたま弱かっただけ。強かった人もそう。
道で倒れている人がいたら、助けようとする。
そんな感覚が鈍ってきてるような気すらしてしまう。
ボクは会社で働くことに限界を感じた。一体、自分はなんの役に立っているのか。
この会社で働いて事業が続くように頑張っても自分の望む世界にはつながっていない気がした。
これではないと思った。自分の生きる道を大事にしたかった。
そして個人事業主をはじめた。
自分の生きる道
できることは限られている。自分に向いていることがある。
自分のことがよくわからないから表現することが大事だと思った。
そして書くことを選んだ。同じように悩む人に対して「書くこと」を取り入れることで
本心を理解する支援ができれば嬉しいなぁなんて妄想もする。
だからまずは書くスキルを伸ばしたい。
あとは1億総自分メディア時代をつくりたい。ウェブ上で本心で繋がれるコミュニティをつくりたい。
やはり自分は「コミュニティ」という言葉に可能性を感じてしまう。
そこでは「人として自分はどのように生きるのか」がフランクに共有することができて、
刺激をもらい、時にぶつかり合い、支え合う文化が育まれている。誰もが平等に過ごせる。
ということで自分の生きる道は現時点で
「ライティング」、「自分メディア」、「コミュニティ」
だと改めて思った。
おわりに
ばあちゃんの死をきっかけにこの記事を書くことができた。
ばあちゃんがどう思っていたかはわからないが、
辛いことがたくさんあったんじゃないかと思っている。
もちろん辛いことばかりではない。孫のボクには優しくしてくれた。
編み物が得意でセーターを何枚も編んでくれた。
部屋をきれいにしたとか、ちょっとしたことでも
「すごいでぇ!」と言って褒めてくれた。
細い目をさらに細めて喜んでくれた顔を思い出す。
ありがとう、ばあちゃん。ばあちゃんの体はなくなってしまったかもしれんけど、
ボクが生きている限り、ボクの頭の中にばあちゃんはおるよ。
自分の道を歩めるよう、がんばります。